新しい太陽と小さな幸せ 第十二話(前篇) 作:越水 涼

 新しい太陽と小さな幸せ 第十二話(前篇) 作:越水 涼

 稲刈りも殆どの田んぼで終わっているようだ。柿が色み、秋桜も目に入る、真っ青な空の朝だった。今日の私はバスセンターから出発した。無論酒を呑みたいからである。周りは通学、通勤の人々。私の様な者はきっといない。そのバス路線の半分以上が私がいつも通勤に通るルートと重なっている。しかしそれが私の心をより憂鬱にさせた。今日は仕事ではなく遊びなのだという事実に後ろめたさが襲って来た。そんな気持ちを振り払おうと思った私は胸ポケットのガラケーを取り出した。そしてまず楳津さんの番号にメールすることにした。〈ご無沙汰してます お元気でしょうか?どこかで働かれているんでしょうか?色々な変化に僕はついていけず困っています 風邪などひかれませんように〉楳津さんは去年六十五歳まで働いて退職した先輩である。私が課長だった時色んな点で世話になった。私も定年に近づき会って話をしたいと思っている人なのだ。こんなことを外の風景を見ながらぼんやり考えていた。運転しているのとは同じ道路でも見え方が全然違うものだ。運転していない分しっかり観察できるし、バスの座席は高いから風景の見え方が違う。それはそれでいい気分転換になった。そうして九時、駅前に着いた。手に掴んでいた十円玉を床に落としてあたふたした。恥ずかしいおっさんである。バスを降り、スクランブル交差点を渡り、エスカレーターに乗り改札へと向かった。

                 ×××××

 開店にはあと数分ある。その店の入り口を確認した上で私は錦通り沿いを歩き、少し先の堀川まで行った。その橋のたもとには何軒もの呑み屋が並び、ずいぶん前に森野に連れて行ってもらった焼き鳥屋もあった。あの時は夜だったから方向音痴の私はこの位置を理解していなかったのだが、ここにあったのだ。〈次からは来れるな〉と私は思った。

 急な階段を上るとすぐ左側に入口があり、カウンターが並んでいた。その三人の板前さんから「いらっしゃい」の声がかかる。すぐ前の席に私は座った。三人共が同じ様に白髪の毬栗頭で見た感じ七十歳位だろうか。端っこにアベックの先客がいる。〈ついに来た。この半年来よう来ようと思っていた寿司屋だ〉板前さんの後ろには手書きのメニュウが所狭しと貼ってある。しばし迷ったが「ランチの中寿司」とキリンビールを注文した。回転しない寿司はかなり久しぶりだ。しばらくして寿司が目の前に置かれた。左から順に食べる。ワサビがびっしりと挟まっていて鼻がおかしくなりそうだ。赤だしも出してもらう。タイ、鉄火巻、イカ、玉子とどれも食べ応えがある。シャリもネタも回転ずしに比べて大きい。追加でアジを頼んだ。〈旨い〉次は誰かと来たいと思った。最後にあがりを貰う。ふと学生時代に深夜によく行った寿司屋の湯飲みを思い出す。片手では掴めないくらいの大きな湯飲みだった。その渋い緑茶の記憶が蘇ったのだった。千九百八十円也。至福の時間だった。平日十一時ではやはり客は入って来ないのだろう。私の後に一人として客はなかった。


コメント

人気の投稿