或る古書店店主の物語 第三十九章 恵子(二) 作:越水 涼

 第三十九章 恵子(二) 作:越水 涼

 恵子は同級生だ。小学校から高校まで一緒だった。勿論、同じクラスになったことは数えられるほどしかない。そして、交わした会話もごくわずかだ。中学の部活は同じだった。美術部。小学校の写生大会で毎年のように入選していた私は何を勘違いしたのか、美術部に入ったのだ。今思い出せる最初の記憶は小学校三年生の写生大会。駅に近い神社の境内の桜を写生していたと思う。そこで何か一言二言喋った。「浩二君はこの木描くの?」「うん」「私も一緒に描いていい?」砂利の上に座って並んで描いた。その程度のことだ。中学では美術部の部活でクロッキーや七宝焼きなどをやっている光景は思い浮かぶが、会話の記憶がない。高校では卒業間近に寄せ書きを書いている光景。私は「走る!」とだけ書いた。そばにいた恵子ともう一人の子が話し掛けてきた。「シンプルやね」「うん、これからの人生、立ち止まらずに走り続けたいって思ってさ」などと答えた気がする。

 大学一年の教養課程の心理学の講義で、女性教授が言った”自分史”を作ることで今までの自分を一度振り返ることができる。そのことがこれからの生活に活かすことができるはずだから是非、と。それを真に受けた私はどういう思考からそうしたのか、今思えば不思議なのだが、彼女の自宅宛てに手紙を出したのだった。具体的な文面は覚えていないが、この手紙を書いたいきさつと「僕はどんな風に見えていたか」と「僕の初恋の相手は恵子だった」ことを書いたと思う。そしてその返事が来て、私に対しての印象は「いつもまじめで、おとなしくて、にこにこしている子」と書かれていた。私の”告白”に対してのコメントは書かれていたかが思い出せないが、その頃付き合っていたという私も知っている同級生とのことが「今、危機なのよね」と書かれていた。他には彼女が入学した教員養成大学の教授達が”おじいさん”ばかりだというようなことが書かれていた記憶がある。

 この手紙のやり取りの前か後かわからないが、中学か高校のクラス会が岐阜の柳ヶ瀬のディスコであった。大流行のディスコが田舎町にも現れ全盛期には及ばないものの柳ヶ瀬もまだそれなりに賑わっていた頃だ。当時の私は高校までのおとなしくて真面目な印象から脱出しようとわざと赤いトレーナーを着てみたり、似合わないパーマをかけてみたり、眼鏡も柔らかい印象の物に変えたりしていたのだった。見よう見まねで踊ってから席に戻った私に、恵子が声を掛けてくれた。「何だか河井君変わったよね」「ん、そうかな」「何か明るくなったもん。第一ディスコにいるんだもん」「それは皆に会いたかったから」そんな会話だった。

 もう、窓の外が明るくなってきた。一時間もぼんやりとこんな昔のことを考えていたのだ。今の世界と昔の世界を行ったり来たりできる年齢になった、と言えなくもないか。と、何かドアの向こうの廊下で話し声が聞こえた気がする。ベッドから降りドアに耳を寄せる。

「…たぶん」

「…そうなんです」

「…間違いないですよ」

「ここなんですね。よかった。うれしい」

 完全には聞き取れないが、声の主は隣の花屋の真由さんともう一人は女性だ。朝から大きな声で楽しそうに何か話している。どうやら私を訪ねて来たようだ。


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