続続続続続続続・ほろ酔い加減でひとり旅 作:越水 涼

 続続続続続続続・ほろ酔い加減でひとり旅 作:越水 涼

 何故だろう、歳を重ねるにつれ、逆にサイクルが定着するのは。つまり、去年の今頃にも第二の故郷ーT市に行くのを切望し訪れた。それとほぼ同じ今日私は学生時代の五年間を過ごしたこの街に来た。四十一年も前に初めて降り立った地、T市、愛知県第二の”都市”である。世界中探してもそんな昔を懐かしんで何度も、それも一人で訪れるもの好きはいないだろう。

 柳生橋を降りた私はまず、すぐ近くの蕎麦屋に入った。この店はただ、ネット上で調べて来ただけの店だ。北海道産の白く細い蕎麦に加え、私の好きな”キリン一番搾り”を中ジョッキで飲めて満足だった。エビの天ぷらも、さつま芋の天ぷらも旨かった。その店を出る時、雨の雫が落ちて来たが傘を持たない私はそのまま南へ向かった。259号線ー地獄線だ。大学に入った当初は頻繁に来ていたボウリング場もその道沿いにあった筈だが見当たらない。小池駅の前にあった喫茶店ースモールポンドもない。そして、私や後輩が暮らしたアパートも大衆食堂も銭湯もなかった…。あの青春の日々の懐かしい思い出もこの風景からは何ら見えて来ないのだった。彼と呑んだ”大学亭”の瓶ビール。確かその店では近くの酒屋で買うよりも安く飲めた記憶がある。学生相手の安い居酒屋。下を見下ろせる二階の席で、ああでもないこうでもないとだべった思い出。それらすべてはこの私の頭の中にしかないのだ。

 大学構内に入る。北門から入った。左手に松の木。今の大学にはこの松の木が私が当時を思い出せる僅かな部分。正門前の風景、学生会館もサークル棟もみんなどこか違うのだ。昔を懐かしむことは虚しいものだ。確かにその時に輝いていた気がしたものも、今となっては果たしてそうなのか、正解がわからない。毎日何を考えていたのか。今に比べれば何倍も自由になる時間はいくらでもあった筈なのに。まったく今と繋がっていないようにも思える。あの時の自分、あの時横にいた彼女、彼達との関係を断ち”大人”になった気がしただけなのではないのか。

 入口があれば出口がある。その通路を私の場合は五年で通った。ただそれだけだ。その時々の選択で今の自分がある。今も生きている。今を生きている。

 最後に今日の目的の一つ、ときわアーケードの”鈴木珈琲店”に寄った。しかし、休みだった。ホームページでは営業の筈だったのに。残念ながら店に背を向け、調べてあったもう一軒の蕎麦屋へ向かった。こちらで黒く太めの蕎麦だった。二時だというのに一人客が次々と入って来る。私は今日二回目のビールを中瓶で飲んだ。旨くない。やはりビールはその日の最初の一杯が旨いのだ。あの頃は何本も何本も旨いと思って飲んでいたのだろうか?否、誰と飲むか、何を話し、考えながら飲むかの部分がきっと旨く飲めるのには重要なのだろう。そんな場面にもう居ることはできないだろうか?


      


   


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