想う秋 作:越水 涼

 想う秋 作:越水 涼

 六時のスマホのアラームで飛び起きた。今の今まで悪い夢を見ていた。実在する上司に詰め寄られる夢だ。何か質問攻めに合い、答えられない私がいた。多くの場合、今見ているのは夢だから大丈夫だ。楽しんでやれなどと思いながら見ているのだが、今朝はそうではなかった。

「ああ、夢だったか!」

 一人、口に出さずにそう思った。傍には誰も居ないから。私はある一件を境に一人で生活することになった。妻や子はいない。もう何年になるだろうか?それを計算したところで何にもならない。七十歳の私はいまも働いている。

 毎朝六時に起きて、テレビを点け、カーテンを開けて、昨日放り込んでおいた洗濯機のスイッチを入れる。その後、六時に炊き上がった飯をほぐして湯気を飛ばす。自分だけの弁当箱に、茶碗なら二杯分の飯をよそう。おかずは十年以上前に妻に教わって覚えた煮豆。冷凍食品の揚げ物。キャベツの千切りにミニトマトくらいだ。それらを適当に詰めればほぼ完成だ。飯の上には酸っぱい梅干しを一つ。

 十年前までは今と全く同じ流れで、妻が洗濯と弁当の用意をしてくれた。皺のよるシャツとハンカチは娘が毎朝アイロンをかけてくれた。私は先に出るもう一人の娘に「気を付けてよ」と言い、「行ってきます」と言うだけでよかった。帰宅してやることは「いただきます」と言って、山積みの食器を洗うことだけでよかった。私は若い時も年が行ってからも、ただただ目の前に用意された”仕事”を黙々とこなして来ただけなのだ。毎日、毎日、暑かろうが寒かろうが、地球上のどこかで戦争があろうが、飢餓があろうが、事故があろうが、目の前の、誰かが用意してくれた労働にありつき、食事にありつき、何かを深く考えることもせず、ただただ、六時に起きて十時に寝るというような日々を、人生の大半をそんなくだらない生き方で過ごして来たのだ。そして今も、一人になった今も同じ生活を続けている。”同じ”なわけないのにである。つまり、大切な人と確かに同じ時間に同じ空間で生きて来たはずなのだが、一緒に人生を歩んでいたのに”同じ”とはどういうことなのか?そう、そこに居ても私は一人だったのだ。いつも周りに人が居て、騒がしくしていても一人。

 まだ、羽毛布団は早いと思って、毛布一枚で寝ている私。二時か三時に尿意で目が覚める。そのあとに見る夢が悪い夢なのだ。秋が深まる今の時期。もう何十年と会ったことのない奴らが私の夢に登場する。そう思えば夢の中の私は一人ではないのか、とも思う。

 

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