或る古書店店主の物語 第四十七章 恵子(十) 作:越水 涼

 第四十七章 恵子(十) 作:越水 涼

 もう帰らなきゃ。私はそう思いながらも、河井君との久しぶりの、こんなに長いお喋りに夢中になっていた。

「そろそろ行かないとフェリーの出発時間に間に合わなくなるよ?」

「…。だよね」

 今でも私は覚えている。中学で同じ美術部のマセた同級生に誘われた時のこと。あの時河井君は言ってくれた。

[嫌やって言っとるやないか!お前が気があっても、恵子は嫌いなんやて。付きまとうな!たわけが!]私達の町の方言でこんな風だったと思う。いつもは寡黙な河井君がとっても頼もしく思えたのだ。それが彼との最初の会話。

「実は私、離婚してるのよね」

「えっ、そうなの?」

「うん。まだ娘が小学一年の時にね」

「大変だったんじゃないか」

「そうね。でも母がいたからよかった」

「そうなんだ。お母さんに助けてもらったんだね」

「そう。じゃなかったら、今頃どうなってたかわからないよ。参観や運動会や、みんな母に頼んでたの。私は仕事があるから」

「いい風に歳取ってきたとしか見えなかったけど、恵子も大変だったんだね。もちろん教師って大変な仕事だと思うし、加えて、子どものことも心配だし。いくら金銭的に余裕があっったとしても、子どもが無事に成長してくれるかどうかなんて誰にも分からないもんね」

「そうね。でも娘も母親になったのよ。先月。全部、母の力があったからだと思ってる」

「へえ、恵子はお祖母ちゃんなのか!」

「うん。そうなのよ。母には未だに頼っててね。ひ孫の世話もしてもらってるの」

「そうなんだ。お元気なんだね。羨ましいなあ」

 河井君の、驚いて、でも羨ましいって言った笑顔が心地よかった。長い人生の中で、夫に裏切られた事実が一方であっても、世代を引き継いだことは絶対に胸を張っていい事実だと思う。

「俺さ、一人だけじゃ何もできないってこと定年間際にわかったんだよね。仕事も、家のことも、もちろん自分の健康だって、側にいる人に支えられて成り立ってるってことなんだよね。自分が頑張れば何とかなるなんて思ってたけど、そんなのたかが知れてる」

「そうね。私はそういう人がいてくれたから何とか生きて来られたと思うわ」


 


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