或る古書店店主の物語 第四十八章 恵子(十一) 作:越水 涼
第四十八章 恵子(十一) 作:越水 涼
泊ってもいいかな?私はそう考え始めていた。否、最初からそのつもりだったのかもしれない。男と女のなにかを期待しているわけではなく、ただ単に彼と、同世代の人間との会話をもう少し続けていたいと思った。傍から見れば初老の男女が昔話に花を咲かせているというだけのことだ。ネット上でたまたま目に留まったホームページが、まさかの同級生のものだった。縁も所縁もないだろうこの瀬戸内の小さな島で、その彼が今何を考え、どう生きているのかを知りたいと思ったのは必然だった。
「でも河井君は何でここにいるの?」
「話せば長いんだけど。簡単に言うと、会社が嫌になって、心機一転しようと思ったってとこかな。何をしたいって具体的なことは何も考えてなかったんだけど。取り敢えずあの場所から逃れたかったっていうかさ」
「うん。でも私みたいに定年後も働けたんでしょ?希望すれば」
「そうだよ。もちろんそのつもりだったさ。奥さんや娘も、一日だらだら家にいるんだったら働いたほうがいいんじゃない?なんて言われてね。車も安いのしか乗ってこなかったし、ゴルフもやらないし、ギャンブルもやらない。ケチな生活を三十年以上続けてればそれなりのお金は溜まってた。ただ、仕事上やり残したことは一杯あったし、それなりの緊張感や義務感をもって、規則正しい生活をしないと人間すぐボケちゃうと思ったしね」
「じゃあ、何で辞めたの?会社」
「うん。雇用条件があまりに悪くてね。その時の上の人間の考え方も最悪でさあ」
「そうなんだ」
「それまでと同じレベルの仕事をやれって言うのに県の最低賃金の時給でさ。当然ボーナスはなしで昇給もなし。もともと課はここ数年欠員状態のまま仕事量は増やされてるし、お気に入りの人間には甘い一方で、気に入らない奴には冷たい。もう、そういう色んなことに耐えられなくなったってことだよ」
「そうなんだ。よく聞く話だけどね」
「まあ、そうだけど。まあ、やることなすこと行き当たりばったりで。人を削ることしか考えてないんだよね。むしろ特に営業の人員を増やして、仕事を取ってこないといけないと思うんだけど、発想がマイナス思考なんだよね」
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